他人こそが『私』である

  • 自分も他人で他者だ。でもこう言い換えることも可能かもしれん。他人(他者)も自分の一部だ。他人(他者)こそ自分だとも言える。自分を性格を映す鏡としての他人(他者)。鏡こそが自分の実像で、実体である私が実際に見えている目視可能な身体の範囲には限界がある。目や背中を目視することは不可能だ。その代わり私だけが私の内面を覗く事が可能だ。でも私には私の内面が存在するとは思えない。私の行動(一挙手一投足)とその成果が私であって、それ以外の私の意義は薄い。内面は自分が取った行動や取ってみたい欲望について悩む場以外の意味は一切なく、薄っぺらだ。
  • 言葉が不自由なのでイライラしてしまう。このページはドキュソの内面吐露の場だったり、実験場だったりする可能性を試しているスペースなんで、言葉が不自由だと思い悩み、ビルドアップを少しずつ(遠い)将来行われていくであろうと予想される日記なんで、何が話題にされても気にしないでと主張したい。例えこれから先毎日、自殺という単語が頻出して自殺について考える日記であっても。とか言ってみたい。気持ちもあるのだが、消してしまいたくもなる。不必要な居心地の悪さはここでは提供したくないので、避けなければならない話題とか多いかも。ルールを自分で設けその枠内を余すことなく舐めるように自由にかつ激しく運動する自由さも大いにありだと思うが、自分を枠内へ閉じ込めるのはどうだろうと思う(マイナス要素ではないのだろうか?)。ライブドアの方ではそうやって記事を書いているつもり。上手く自己ルールが機能してないかもだが。もっとこのはてなダイアリーでは人の神経を逆撫でした方が良いのかも(手っ取り早くあくせすすうを増やせそう)とか思うが、そんなことは考えない方が真にルールに縛られない自由な精神なのかも?違うかも?